京都市西京区松室山添町15番地  松尾大社の大鳥居を南に約四百メートル
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  月読尊(つきよみのみこと)

日本書紀の顕宗天皇三年二月(487)の条に、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という者が勅命を奉じて任那に派遣されることになったが、月神が或る人に憑依して…

… 「我が祖、高皇産霊(たかみむすび)、天地を熔造(ようぞう)するの功にかる。しく民地を以って奉れ。我は月神なり。に依り、我に奉らば、当(まさ)福慶(ふくけい)おらむ」…
との託宣があった。
事代は都に還り、このことを奏上した。
朝廷では月神の請をいれて山背国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉られた。
そして月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)が神社を造営し、祠官として奉仕した。
これが月読神社の創祀である。
その後、押見宿祢の子孫は世襲祠官として永く神社に仕え、本貫地の壹岐(伊岐)を氏の名とした。
この伊岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人である。
壱岐は地理的に大陸に近い関係で、壱岐氏は早くから中国の亀卜の術を我が国に伝え、これを中央に伝播んした氏族の一つで、神祇官にあって卜占の事に関与し卜部氏を名乗っていた。
卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分等の祖神と仰ぐ「月神」に、氏族の安泰と繁栄を祈念すべく奉斎したのが、そもそも当月読神社の創始ではなかったろうか。
卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分等の祖神と仰ぐ「月神」に、氏族の安泰と繁栄を祈念すべく奉斎したのが、そもそも当月読神社の創始ではなかったろうか。

当初の鎮座地、については、現在も月読の地名が残っている桂川左岸に在ったとも、右岸の桂上野の辺とも言われているが定かではない。
現在地に移ったのは、文徳天皇斉衝三年(856)で、度重なる桂川の氾濫を避けて安全地帯の松尾山麓を選ばれたものであろう。以後この地も、祠官の家名も松室と呼ばせるようになったと言われる。
以後この地も、祠官の家名も松室と呼ばせるようになったと言われる。
葛野郡一帯は早くから、帰化族の秦氏の勢力圏であったから、当然当神社も松室氏も秦氏の厚い庇護を受け親密な関係にあった。
このことは、当社の世襲祠官であった松室氏が、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕していたことでも明らかである。
信仰も元来の天文・暦数・卜占・航海の神から転じて、疱瘡の神として崇められることもあり、近世以降はむしろ農耕の神として地元農民の崇敬を受けて今日に及んでいる。