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日本書紀の顕宗天皇三年二月(487)の条に、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という者が勅命を奉じて任那に派遣されることになったが、月神が或る人に憑依して…
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… 「我が祖、高皇産霊(たかみむすび)、天地を熔造(ようぞう)するの功に預かる。宜しく民地を以って奉れ。我は月神なり。若し請に依り、我に奉らば、当(まさ)に福慶(ふくけい)おらむ」… |
との託宣があった。 |
事代は都に還り、このことを奏上した。 |
朝廷では月神の請をいれて山背国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉られた。 |
そして月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)が神社を造営し、祠官として奉仕した。
これが月読神社の創祀である。 |
その後、押見宿祢の子孫は世襲祠官として永く神社に仕え、本貫地の壹岐(伊岐)を氏の名とした。
この伊岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人である。 |
壱岐は地理的に大陸に近い関係で、壱岐氏は早くから中国の亀卜の術を我が国に伝え、これを中央に伝播んした氏族の一つで、神祇官にあって卜占の事に関与し卜部氏を名乗っていた。 |
卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分等の祖神と仰ぐ「月神」に、氏族の安泰と繁栄を祈念すべく奉斎したのが、そもそも当月読神社の創始ではなかったろうか。 |
卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分等の祖神と仰ぐ「月神」に、氏族の安泰と繁栄を祈念すべく奉斎したのが、そもそも当月読神社の創始ではなかったろうか。 |