歴史・由緒
[磐座祭祀]
当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられております。
[秦氏来住]
五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。
[秦氏の開拓]
伝説によると……
……「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」……
これらの記述は、秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつ、この地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。
[大堰と用水路]
秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地内を通っております。
[酒造神]
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。 酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。 室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。
[平安京誘引]
時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説となっております。
[神殿の造営]
文武天皇の大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。
[松尾社と平安遷都]
上代において秦氏を始めとする山城・丹波の住民から、農産業、土木工業の守神と仰がれた当社は、平安時代以降朝廷の守護神とされるに至りました。桓武天皇は延暦3年(784)11月、都を長岡京(現在の京都府長岡京市)に移されると、勅使を派してこれをご奉告になり、まもなく平安京に都を移されると、当社と賀茂神社とを皇城鎮護の社とされ、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、ご崇敬はいよいよ厚く加わるに至りました。
[神階昇叙]
仁明天皇は、承和年間(834~847)に勅使を遣わして奉幣あらせられ神階を従三位に昇せ、文徳天皇は仁寿2年(852)に正二位を、清和天皇は貞観元年(859)に正一位に進められ、後に勲一等に叙せられました。
[二十二社]
醍醐天皇の御代に編修された延喜式(927年撰上)には、二神とも名神大社に列せられているのですが、その後二十二社の制が立てられると、その第四位に記されるに至りました。
[皇室の参拝祈願]
一条・後一条・後朱雀・後三条・堀川・崇徳・近衛・後鳥羽・順徳の各天皇は行幸参拝あらせられ、清和・後白河両天皇はご神宝をご奉納、仁明天皇は病気平癒を、清和天皇は甘雨を、村上天皇は皇居並びに京師の安泰をそれぞれご祈願あらせられました。
[荘園]
平安時代には前述のような状況で、社頭は極めて栄え、社領も遠近各地に散在しており、丹波国の雀部庄、小川庄、天田川庄、摂津国の山本庄、越中国の松永庄、甲斐国の巨摩庄、遠江国の池田庄、伯耆国の竹田郷、三朝郷、東郷庄、豊前国の門司関などが著名です。
[分霊社]
また当社のご分霊を勧請して各地に祀ることも盛んで、現在全国に存するご分霊社一千三百余の内には、この時代に創設されたものが相当あったと云われております。
[武門の崇敬]
鎌倉時代に入ると、源 頼朝公は社参して願文を奉納し、黄金百両、神馬十頭を献じましたが、以後も武門の崇敬は続き、将軍足利義政、豊臣秀吉も神馬を献じました。
[江戸時代]
江戸時代には、ご朱印の社領千三百三十三石を有し、また嵐山一帯の山林一千余町歩を持っており、奉仕する神職は三十三名、神宮寺の社僧は十余名、筆頭の神主・秦氏は累代三位の昇せられ、また幕末には、勅使を派遣される勅祭社に擬せられたこともあったのです。
[明治時代以降]
諸政一新の明治4年になると、全国神社中第四位の序列をもって官幣大社に列せられ、政府が神職の任命や社殿の管理などを行う国の管轄となり、大正11年には皇后陛下ご参拝あそばされ、終戦直後には梨本宮妃殿下がご参拝なされました。また天皇陛下よりはしばしば神饌幣帛料をご奉納なされました。 終戦後は、国家管理の廃止により、官幣大社の称号も用いないことになったことから、同名神社との混同を避けるために昭和25年に松尾大社と改称し現在に至っております。